こんな話 2019年11月14日|木曜日
高知県 桂浜と足摺岬を訪ねて 坂本龍馬とジョン万次郎
時々、好きな偉人のゆかりの地を訪ねて、自分の道しるべを確認します。
今回は高知県を回りました。
坂本龍馬さんとジョン万次郎さんに会いに参りました。
桂浜の坂本龍馬像
車で新名神を走り、瀬戸大橋(児島〜坂出ルート)から四国入り、大歩危・小歩危峠を越えて、高知入りしました。
豪気節
じつはこの桂浜は、戦前、旧制高知高等学校の学生が朴歯の下駄と黒マント、ボロボロの学生帽を身にまとい、放歌高吟をしたところでも有名です。
旧制高知高等学校は、大正11年創立で、卒業生には作家の三浦朱門がいます。
初代校長の江部淳夫は名物校長として知られています。
「感激あれ若人、感激なき人生は空虚なり。」
という有名な言葉を残されています。
龍馬像から脇に入ると、このような歌碑があります。
有名な豪気節の歌碑です。
その九番目。
♪
九つとせ~
この浜、寄する大涛は
カリフォルニヤの岸を打つ
という何とも豪気な歌詞です。
坂本龍馬も、長崎で作った日本初の株式会社と言われる、亀山社中(海援隊)で、英語の辞書を作ろうとしていました。
太平洋を隔てた、むこう岸はもうカリフォルニアなんですね。
太平洋、英語と来れば、あの人に会いに行こうと思い立ち、さらに車で西へ。
高知県 土佐清水市 足摺岬
幕末期、この地の漁師だった若者が、漁に出た後、流され流され漂流してしまいました。
無人島に流れ着いた後、偶然通りがかったアメリカの捕鯨船に救われ、後にアメリカ東海岸へ行きます。
その若者が、ジョン万次郎こと中浜万次郎です。
土佐清水市のジョン万次郎記念館
充実した展示品で、郷土の誇りだというのが伺えます。
道路には、「ジョン万次郎を大河ドラマに!」というのぼりがいくつも立っていました。
ジョン万次郎が主人公の大河ドラマなら、すごく見てみたいです。
その後、アメリカの学校を出た万次郎は、アメリカの捕鯨船の乗組員になります。
そして、数年たった後、日本に帰国したいと願い、帰国資金を稼ぐために、西海岸へ向かいます。
なんと手っ取り早く稼ぐ当時の方法は、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアの鉱山で働くことでした。
稼いだお金をもとに船を購入して帰国します。
その後、江戸幕府の役人となり、英語ができる万次郎は様々な重要な仕事を任せられるのでした。
その時期に、勝海舟や、故郷の土佐藩の後藤象二郎や板垣退助とも会っていますし、後に三菱財閥を作る岩崎弥太郎や、坂本龍馬とも何らかの接点があったはずです。
ちなみに日本人で初めてジーパンをはいたのは、戦後の白洲次郎ではないかと言われていますが、ジョン万次郎はカリフォルニアの鉱山で金の採掘をしていた1850年頃に、おそらく草創期のジーパンらしきものを履いていたと思われます。
リーバイ・ストラウスがその頃にジーンズの店をサンフランシスコに開き始めていますので、作業着としてのジーパンが使われていたと思います。
そのときのジーパンが見つかれば、プレミアものでしょうね。
実際、帰国した時のジョン万次郎の服装が、こちらのパンフレットにある通りです。
粋なカウボーイハットにズボンという、カントリー歌手も顔負けのダンディさです。
当時の日本人はさぞ驚いたことでしょう。
ジョン万次郎が作った、日本初の英会話の本が展示されていました。
すごく実用的で、分かりやすいものでした。
発音は、万次郎が聞いた通りのものとなっているので、そのまま読めばネイティブのように発音できます。
今回は図らずも、英語が日本に入って来た頃の様子を、ジョン万次郎を通じて学ぶことができました。
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