勉強の話 2019年1月8日|火曜日
教養堂のこだわり教材⑤ 『オランダ東インド会社 平戸の塩味コンペイトウ』
長崎県平戸市から
小瓶ですね。中はコンペイトウが入っていますね。
-いえいえ、この瓶のコルク栓を見てください。
ナニナニ、紋章ですか。V・O・C……。
-Vereenigde Oostindische Compagnie
略称VOC つまりオランダ東インド会社の商標マークです。
17世紀頃にイギリスと世界の海洋の覇権争いをしたオランダの植民地経営の国策会社ですね。
-そうです。そして世界で初めての株式会社、それがオランダ東インド会社です。
本社はもちろん首都のアムステルダムにありました。では、日本支社はどこにあったかご存知ですか?
そもそも日本支社があったんですか?
-コソコソやってたんですよ。長崎の出島です。
なるほど。それとこのコンペイトウの瓶と何か関係があるのですか。
-長崎の出島に移る前はどこにあったかというと、長崎県の平戸にあったんですよ。
でも、禁教令とともに、鎖国政策によって平戸が封鎖され、出島に移ったのです。
現在、平戸市はかつてあったオランダ商館を復元して、博物館にしているわけです。
しっかり当時の作り方で再建した、立派な博物館です。
わかりました。そこで買ってきたお土産なんですね!
-お土産ではないです。「教材」です!
なぜコンペイトウなんですか?
-平戸に「根獅子の浜」(ねしこのはま)という海岸があります。今ではすごくおだやかできれいな浜辺です。
実はその浜が、隠れキリシタン弾圧の現場となり、たくさんの血が流れたのです。
キリシタン弾圧の象徴的な浜なのです。
今では、その浜でわざわざ満月の夜に採る最高級の塩が地元の特産品だそうです。
その塩を混ぜて作った塩味のコンペイトウを、平戸オランダ商館の博物館で、オランダ東インド会社の製品に似せて売られているわけです。
スギハラビザのキュラソールート
オランダ東インド会社とキリシタン弾圧の歴史、そして地元の特産が結集した平戸の特別なお土産……いや、教材なのですね。
-17世紀から19世紀までオランダは世界の海洋を支配し世界各地に植民地を持つオランダ海上帝国になりました。
オランダ領東インドは、現在のインドネシアですね。日本では戦前まで蘭領東印度。つまり「蘭印」と言っていました。
セイロン島(スリランカ)・ギアナ(スリナム)・西アフリカのギニア海岸・ブラジルの一部、そして何と台湾も一時期、オランダ領だったのです。
その極東の端の日本の平戸や長崎にオランダ東インド会社の支社あったわけです。
杉原千畝さんをご存知ですか?
岐阜県八百津町出身の外交官で、愛知県の瑞陵高校(旧制愛知五中)のご出身なんですよね。
第二次世界大戦時、1940年頃、リトアニア領事で、ドイツから逃れてきたユダヤ難民に、独断でパスポートビザを発給した方ですね。
-そうです。ドイツと友邦だった日本政府の意向を無視して、人道主義に基づいて行動をした真の教養人と言えます。
そのユダヤ難民のビザは、日本を経由地として、最終目的地はどこだったか、知っていますか。
えーと、リトアニアからシベリア鉄道でソ連を横断し、ウラジオストックに着きますね。
そこから、日本海を越え、敦賀港に着く。
汽車で横浜や神戸に行き、一旦休んでから、船でカナダなどへ渡ったのではないですか?
-もちろんそのルートです。アメリカに移住された方もいますし、そこからイスラエルに向かった方もいるでしょう。ただし、ビザには最終目的地が書かれてありました。
どこですか。
-キュラソーです。
キュラソー?
‐カリブ海にある島です。現在もオランダ領であるキュラソー島です。
なぜ、ユダヤ難民の目的地がカリブ海のオランダ領なのですか?
-1940年頃、本国オランダはどうなっていたと思いますか?
あ、第二次世界大戦がはじまり、西部戦線でナチス・ドイツにオランダは負けて占領されたんですね。
-そうです。「アンネの日記」のアンネ・フランクもナチスに占領されたオランダのアムステルダムにいて捕まったのです。
ですから、本国オランダが事実上消滅していたので、キュラソーも、宙に浮いた状態でした。
その空白を上手く突いて、名目上の目的地キュラソー行きのビザを発行したのです。オランダ人外交官、ヤン・ズボルテンディクのアイデアです。
キュラソーに行かなくても、途中で受け入れる国に亡命すれば良いわけですね。
-かつてのオランダ海上帝国の残影で、世界史の中で忘れられていたカリブ海の小さな島が、ユダヤ難民の希望の光であったわけです。
映画『杉原千畝』 主演 唐沢寿明
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