こんな話  2020年11月3日|火曜日

愛知県江南市 尾州商人の歴史講演会に参加して

 

 

 

11月1日(日)、江南市民文化会館で催された歴史講演会に参加しました。

 

講演会に集まった参加者は男性が7割、女性が3割。

60歳以上の方が多く、いずれの方々も熱心に聞き入っていらっしゃいました。

 

おそらく地元江南市の方はもちろん、歴史に関心を寄せる方も遠方からいらっしゃっていると思います。

 

知的好奇心、向学心は年齢に関係ないですね。

これは子どもたちにもぜひ伝えておきたいところです。

 

 

テーマは「尾州商人」

江戸初期から幕末、明治にいたるまで、江南市周辺の歴史、そしてその歴史を支えた尾州商人たちのはたらきについて、内容は盛りだくさん。

地元江南市民も知らない、壮大な歴史秘話。

 

・すべての源は、木曽川にあり。

・犬山城主 成瀬正成公の木曽川治水工事。財源は幕府から。

・扇状地から桑畑、綿花畑へ。

・尾張は江戸からずっと人口増加。飢饉知らず。

・東野は尾張藩領で、古知野は成瀬家領!?

・尾州商人の謙虚で地に足着いた堅実な商法。

・幕末に薩摩藩に貸した明治維新の軍資金6万両は尾州商人から。

・100年の計、尾張鉄道の施設。(現名鉄犬山本線)

 

 

名古屋 尾張徳川藩領と犬山成瀬家領

この江南市は、尾張藩領といえども、実は二重の支配下にありました。

 

江南市の東野(旧東野村・現滝学園周辺東野町)は、尾張徳川家の尾張藩領。

 

江南市の古知野(旧古知野村・現江南駅周辺古知野町)は、犬山の成瀬家の家領。

これだけでも興味深いですね。

 

尾州商人と名古屋商人

この地で商いを始めた「尾州商人」たちは、東野では尾張徳川家の支配下に入るので制約があるから、わざわざ古知野村で商売をはじめたのだそうです。

 

そうすると名古屋城に出入りする際にも、犬山成瀬家のお使いであるとすれば、門の中に入れたのだそうです。

 

しかしながら、名古屋には、織田信長以来の恩顧がある名古屋商人が隠然たる力を握っており、尾州商人たちは格上の名古屋商人を刺激することなく、表に立たず地味に商いをしたのだそうです。

 

この伝統が今の名古屋の堅実な商売に綿々と受け継がれています。

 

安土桃山時代が終わり江戸時代が始まった頃、名古屋城が築城されることで、信長の居城があった清州から名古屋に尾張の中心が移りました。(清州越し)

 

この時、織田信長の一族、家臣、町人や神社仏閣、町屋にいたるまで、名古屋城下町に移りました。

 

昭和20年、大戦末期、名古屋が米軍B29の空襲で焼け野原になるまでは、この城下町一帯は信長以来の恩顧のある旧家の伝統がずっと残っていたそうです。

 

 

江戸時代初頭    成瀬正成公の辣腕

尾張藩は徳川御三家筆頭の尾張徳川家の領地ですが、尾張藩附家老の犬山城主成瀬家の領地もあります。

 

初代成瀬正成公は、江戸で老中として勤めていた頃から、木曽川の治水工事を指揮し、それが完成した後、犬山城主として犬山に入りました。

 

しかも正成公、この木曽川治水工事の財源を、「西国大名の防御壁建設のため」という大義名分で、江戸幕府から捻出し、尾張の財源からは出しませんでした。

 

つまり、愛知県内の土木工事を愛知県の財政で賄わず、国土交通省を通して国の財政で賄うという、幕府の中枢にいる老中にしかできない技を使いました。

 

しかもそれを終えてから地元に凱旋して犬山城に入るわけですから、天下りの地ならしをしていたという見方もできます。

いずれにしても有能なお殿様でしょう。

 

御囲堤(おかこいてい) 江南市北部宮田の木曽川治水工事

この治水工事により、木曽川から流れる用水や水流によって、尾張の土地は豊かになりました。

もともと木曽川が運ぶ土砂による扇状地で水はけがよく、養蚕業に不可欠な桑畑に最適でした。

 

江戸年間を通して尾張は、人口が右肩上がりで飢饉による人口減少がありませんでした。

肥沃な土地が保証されていたわけです。

 

 

幕末から明治維新

幕末期には、日本の生糸の輸出が増大しました。

この時、江南市周辺の尾張北部は、養蚕や綿花栽培が盛んで、日本の輸出量の3割を担っていたそうです。

 

このあたり、歴史の教科書やテスト、入試でも頻出事項ですが、地元江南市がまさにこの時期、大活躍していたのは誇らしいです。

 

そしてこの幕末期に生糸の生産で莫大な富を尾州商人は築き上げました。

 

尾張藩は当初は佐幕派(旧幕府派)でした。

幕府の命令で、討幕派の長州藩を攻める側にいました。

 

が、藩論が転回し、討幕派(薩長・明治新政府側)になります。

その時、薩摩藩に戊辰戦争の軍費として6万両(今の価値で60億円)を差し出しました。

 

この莫大な資金は、実は尾州商人から出されたのでした。

もちろん明治になっても返還されることはありません。

 

これはあまり知られていないのですが、戊辰戦争の時、薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の明治新政府軍は、江戸に向けて進軍するのですが、東海道ではその明治新政府軍の先頭は、尾張藩藩主の徳川慶勝公が務めました。

 

教科書に出てくる、江戸城無血開城(薩摩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟との会談で有名)の時に、尾張藩が先頭で江戸に向かったのです。

 

明治時代

明治になり尾州商人はすでに名古屋に居を構え、繊維業をはじめとする大きな商売を手掛けていました。

明治27年(1894年) ちょうど日清戦争の頃、尾張に鉄道を敷くという計画ができました。

これに尾州商人たちがあつまり株式会社を作り、「尾張鉄道」ができました。

 

ここでも木曽川の扇状地の恩恵にあずかります。

扇状地で石がたくさんあり、線路を引くのに適していたので、工事が楽に進みました。

 

大正時代

開通は大正元年(1912年)。

名古屋の押切から、枇杷島、小田井、岩倉、布袋、小折、古知野、宮後、扶桑、犬山、そして木曽川の鉄橋を越え鵜沼までのルートです。

 

当時は一両だけの単線でしたが、犬山から名古屋への重要な交通の足として人の移動を容易にしました。

 

講演された後藤正敏さんは、この鉄道によって名古屋へ通学するこの周辺地域の子どもたちの教育に大変よい影響をもたらしたと話されました。

 

旧古知野駅(現江南駅)

 

この鉄道は、今の名古屋鉄道犬山本線になります。

ちなみに、布袋駅が新しく改装されましたが、以前の旧駅舎の布袋駅はこの尾張鉄道開業当時からの駅舎だそうです。

尾張鉄道のマークが駅舎の木柱に彫られていました。

私もかつて旧布袋駅が現役の頃、見た記憶があります。

 

旧布袋駅舎

2回に続き、地元尾張の地場産業と尾州商人、尾張北部の歴史をご紹介しました。

 

江南市周辺の歴史、まだまだ深掘りします。

 

KEYWORDS

お問い合わせ

top