こんな話 2022年9月26日|月曜日
岡山県高梁市 備中松山 山田方谷を訪ねて
幕末の激動期には全国に無数の私塾がありました。
どんな教育がされ、どのような学問をされていたのか興味が尽きません。
今回は岡山県高梁市を訪れました。
倉敷から高梁川 伯備線に沿って行くと、旧備中松山に入ります。
ここは幕末に儒学者 山田方谷 (1805-1877) が活躍しました。
若い頃、陽明学と出会い、江戸に留学。
佐藤一斎の門下生となり、一斎の私塾で塾頭になるぐらい優秀でした。
同門の佐久間象山とともに「佐門の二傑」と称されました。
もっとも象山とは折り合いが悪かったようです。
幕末から明治にかけて活躍した志士より二世代、三世代上の存在です。
備中松山藩の松山城は標高430mの山頂にそびえる難攻不落の山城です。
秋頃は雲海が麓に立ちこめると天空の城のようになります。
この高梁市は、映画「男はつらいよ」シリーズでおなじみの寅さんの妹さくらの夫、博の出身地という設定でも有名です。
そのためシリーズで何回となくロケ地に選ばれています。
第8作 「寅次郎恋歌」
第32作 「口笛を吹く寅次郎」
まずは映画のロケ地を巡ってみます。
第32作で寅さんが寺男として住み着いたお寺 「薬師院」。
この石段が映画でも使われました。
石段を下りて市中を歩いてみます。
映画のロケ地としても有名な「紺屋川」。
旧藩主の菩提寺。
篆書体の札。
篆書体好きにはたまりません。
江戸時代からの武家屋敷が今でも残っています。
山田方谷はもともと農家の出身で武士ではありませんが、学問の優秀さが認められ藩主より抜擢。
いちやく藩の財政改革を担います。
当初は旧来の藩士からのやっかみを受けましたが、実績と成果で認められるまでになりました。
それまで松山藩の財政は火の車で借金がかなりありました。
それを短期間のうちに返済。
財政改革に成功しました。
改革の実績を数え上げたらキリがありませんが、
・大阪の藩の蔵屋敷を廃止。両替商との直接交渉。
・米相場を見て直接取引。
・殖産興業の育成。地場産業の「たたら製鉄」を直営し、「備中ぐわ」や「釘」の特産品を全国に販売。
・それまでの旧藩札を回収し新しい藩札を発行。財政の信頼を回復。
・軍政改革をして「農兵制」を導入。
・軍備の洋式化。
・アメリカから船を購入。平時は米の輸送船として、非常時には軍艦として使えるようにする。
「農兵制」については長州藩の久坂玄瑞が見学に訪れ、それが後の高杉晋作の「奇兵隊」につながりました。
ということで、財政改革のみならず藩の政治を瞬く間に近代化してしまいました。
改革がことごとく的を得て成果をあげています。
無駄なものは潔く省き、準備すべきものは躊躇なく投資する。
そして旧来の封建制度に縛られない柔軟な思考。
実績と成果で藩を立て直しました。
町の中心地にある「方谷記念館」を訪れました。
町を散策。
山田方谷が先生をしていた藩校「有終館」跡。
今は幼稚園。
その頃からある「クロマツ」。
町を出て高梁川にそって北に向かってみます。
隠居の身になった方谷は町から離れたところで私塾を開きます。
この塾にも方谷を慕う人が全国から門を叩きました。
その中でも有名なのが、越後長岡藩の河合継之助。
新潟からはるばる教えを請いにきました。
一緒に畑仕事をしながら学んだそうです。
弟子の河合継之助が故郷長岡に帰る時、王陽明の「陽明全集」を方谷から4両で譲りうけたそうです。
そこは倹約を徹底された方谷。
経済観念がしっかりされています。
明治になってこの地に鉄道駅ができることになりましたが、全国でも珍しい個人の名前を由来にしたその名も「方谷駅」が誕生。
晩年の方谷は教育者として後進を育成。
いくつもの塾や学校の設立(閑谷学校)に尽力。
全く「私心」ということがなかった生き方をした山田方谷。
今でも郷土の誇りとして名を残しています。
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