こんな話 2019年11月4日|月曜日
山口県長門市 村田清風記念館を訪ねて ~子どもを変えた母の極意~
英雄たちの影にそれを支えたプロデューサーあり。
幕末の志士たちが京都で活躍できる土壌には一世代前の改革者が必ずいました。
山口県長門市 村田清風記念館
「村田清風記念館」を訪ねて
山口県の日本海側、長門市に「村田清風記念館」があります。
旧長州藩の中心地、萩市から西へ21㎞。
近くには観光スポット 角島大橋や、詩人 金子みすゞ の記念館もあります。
山陰本線三隅駅から車で5分。
国道191号線から入ってすぐ間近に日本海の青い海が見え、山陰本線を走る1両列車が時おりレール音を響かせていきます。
静かで風光明媚なところです。
村田清風 (1783-1855)は江戸後期、長州藩(山口県)の重役として藩政改革で活躍した偉人です。
毛利氏の藩主に仕えること5代にわたり、一旦隠居した後にも、年老いてなお藩に呼ばれて後進の育成に力を注ぎました。
晩年は萩城内で杖を使って歩くことが特別に許された、ただ一人の人物でした。
ペリーの黒船来航でいよいよ時代が動く中、この世を去ります。
清風の凄さ
村田清風の凄さを伝えることは難しいのですが……、
まず、明治維新で活躍した志士たちや明治の元勲たち、木戸孝允(桂小五郎)・久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋・井上馨・山田顕義たちを教え導いた先生が、松下村塾の吉田松陰先生です。
そして、吉田松陰先生の先生にあたる人が、村田清風なのです。
また、坂本龍馬が尊敬していた一人に、肥後藩(熊本県)出身の儒学者で、福井藩の改革を担った横井小楠がいます。
龍馬の先生の勝海舟が、天下で恐ろしいと思う2人の人物を挙げていますが、西郷隆盛ともう一人がこの横井小楠です。
その横井小楠先生が言いました。
「旅先で色んな人物に会ったが、私が唯一頭を下げたのは、村田清風だけだ。」
どれだけ凄いか、伝わりましたでしょうか。
清風の改革
幕末期、長州藩は藩政の改革に成功して財政が豊かだったと、教科書にも載っています。
さらに長州藩は幕末期に軍艦や銃を大量に購入し戊辰戦争に備えたり、イギリスに密かに伊藤博文たち留学生(長州ファイブ)を送りましたが、その潤沢な資金は一体どうやって賄ったのでしょうか。
実はその資金は、さかのぼると村田清風の優れた改革にあるんですね。
村田清風の改革の前は長州藩といえども財政は豊かではなかったのです。
その藩政改革を実行したキーパーソンが村田清風でした。
①長州藩の主要産業、コメ・紙・塩・ろうの4つの生産性を挙げて収入を増やしました。
②借金を完済する政策を断行しました。
③下関を通過する輸送に税金をかけました。
④藩校「明倫館」の教育改革を行い、後進の育成をしました。
などなど経済面や教育面に辣腕をふるいました。
質素倹約も促し、守らない所には弾圧も加えたため、暗殺される危険との隣りあわせでもありました。
自宅の裏口からこっそり命を狙いに来た暗殺者を怒鳴り、追い返したこともありました。
村田清風の少年期
それでは村田清風はどんな子ども時代だったのでしょうか?
これがなんと!
近所の子たちから、いじめられてばかり。
ついたあだ名が……「どん亀」!
何をやっても他の子より劣り愚鈍なことから、みんなから馬鹿にされていたというのです。
後の清風からは全く想像できません。
「どん亀」と言われた子に何が起きたのでしょうか。
母の秘策
それを見ていた清風のお母さん、岩子。
心を痛めていました。
そこでわが子がしっかりするように取った行動、
それが神社へのお百度参りでした。
何度も何度も神社に参り、祈ったというのです。
その母の真剣でなみなみならぬ姿を見た清風は、ついに「自覚」しました。
それ以来、勉学に励み,みるみる成長しました。
萩の藩校、明倫館に通い、ついには優秀な学業を修め学費免除にもなりました。
その後、お殿様の小姓役を振り出しに、藩の中枢にのぼりつめ、のちには先ほど述べた通りです。
記念館で清風と母のエピソードとして紹介されていました。
清風キャラバン
地元三隅では、清風が萩の明倫館まで毎日歩いた21㎞を、小学生中学生が歩くというイベントが毎年あるそうです。
清風、20歳の時に江戸に出て詠んだ歌
来てみれば 聞くより低し 富士の峯
釈迦も孔子も かくやあるらん
<意訳>
近くに来て見ると、うわさに聞いていたより富士山は低い。お釈迦様や孔子様も偉いと聞いているが、これと同じだろう。
手の届かないことと思っていたが、自分も努力してやればできるだろう。
記念館の隣に清風の旧宅「三隅山荘」が今も現存しています。
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