こんな話 2022年9月4日|日曜日
北九州市小倉 森鷗外 旧居を訪ねて
それでこんな家に住んでゐたら、気が落ち着くだらうといふやうな心持がした。
小説 「鶏」 森鷗外 より
森鷗外が小倉に住んでいた頃の家
森鷗外が作家として数多くの名作を世に出す前の37歳から40歳までを小倉で過ごしました。
北九州市小倉北区鍛冶町に今も家が現存します。
小倉駅から歩いて5分。
現在、周りは飲食店に囲まれています。
そこに平屋の凛とした純和風の一軒家。
陸軍第12師団 軍医部長として単身赴任。
この家から小倉城内の師団司令部に馬に乗って「通勤」。
門をくぐると、鷗外先生の銅像がお出迎え。
鷗外が30代後半、作家として華々しく活躍する前夜。
「小倉時代」より前の20代に小説「舞姫」を発表していたものの、この頃はまだ単なる陸軍官僚でしかありません。
一説によると小倉行きは「左遷」だった、
いやそうじゃない単なる「人事異動」だった、
など諸説ありますが、
数年後、短期間の内に名作を連続して発表する前の時期が「小倉時代」でした。
「天馬行空」
鷗外が知人に送った自筆の書(複製)
等身大パネルの鷗外先生。
2年10か月の小倉時代。
40歳になった鷗外は小倉を離れます。
日露戦争に従軍後、45歳で陸軍軍医総監。
陸軍の仕事の傍ら作家として本格的に活動再開。
47歳で「ヰタ・セクスアリス」発表を皮切りに、
「興津弥五右衛門の遺書」
「青年」
「かのやうに」
「阿部一族」
「山椒大夫」
「高瀬舟」
「寒山拾得」
「渋江抽斎」
など傑作を発表。
47歳から54歳まで実質たった6年間が世に知られる「森鷗外」としての躍動期でした。
ピカソには「青の時代」があり、
鷗外には「小倉時代」がありました。
「沈潜」の時期であり「蓄積」の時期。
そして晩年、「森鷗外」から故郷島根県 津和野の石見人「森林太郎」として人生を全う。
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