こんな話  2024年9月9日|月曜日

中2国語 那須与一を訪ねて 後編 「扇の的~平家物語~」から

 

平家物語 扇の的

 

ころは二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに、

をりふし北風激しくて、 磯打つ波も高かりけり。

舟は、揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。

沖には平家、舟を一面に並べて見物す。

陸には源氏、くつばみを並べてこれを見る。

 

那須の与一で有名な「扇の的」の現地へ行ってまいりました。

 

香川県高松市牟礼町

源平合戦の頃はすぐ海のなっていたと思われますが、現在は舗装され水路が整備されており、当時の面影はもはやありません。

かろうじて、残っている史跡が2つ。

 

判官義経から、あの的を射よ、と命令を受けて祈ったと言われる場所の岩、「祈り岩」。

そして、馬と共に波間に入ってそこで弓を引いたとされる岩、「駒立岩」。

 

いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、

願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。

これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度面を向かふべからず。

いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」
と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、 扇も射よげにぞなつたりける。

 

祈り岩

ここで与一は目を閉じて、神々に祈願します。

そこから、歩いて1分の所に、馬を進めて弓を射る場所を定めた「駒立岩」があります。

その場所には下り立つことができます。

そこから、平家方の船の扇までの位置を見てみます。

記録から推察するに、75 m ほどだと思われます。

画像で見ると近く見られますが、実際の現地に立ってみると、「扇」がやっと見つけられるぐらいです。

視力も良くないと射ることが困難です。

現地には、看板が立っており当時を偲ぶことができます。

 

与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。

小兵といふぢやう、十二束三伏、弓はつよし、浦響くほど長鳴りして、 あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。

かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。

しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。

 

 

3分ほど歩くと、義経 弓流しの地もあります。

 

「弓の惜しさに取らばこそ。

義経が弓といはば、二人しても張り、もしは三人しても張り、叔父の為朝が弓のやうならば、わざとも落として取らすべし。
尫弱たる弓を敵の取り持つて、

『これこそ源氏の大将九郎義経が弓よ。』とて、嘲弄せんずるが口惜しければ、命にかへて取るぞかし。」
と、宣へば、みな人これを感じける。

屋島は半島ですが一つの山で瀬戸内海に三方出しています。

標高は、292 m 。

四国八十八箇所 第84番札所 「屋島寺」があります。

しずかな瀬戸内海。

当時と同じ島々。

夕刻になると夕日が水面に映えます。

与一が扇の的を射たのは、二月(旧暦)の酉の刻。

ちょうどこれくらいの夕日の頃でしょうか。

 

夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出したるが、
白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、

沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、
陸には源氏、 えびらをたたいてどよめきけり。

 

寄席の紙切り芸人 林家喜之輔さんに切っていただいた「扇の的の那須与一」

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