こんな話  2024年10月2日|水曜日

中2国語 正岡子規を訪ねて 前編 愛媛県松山市の記念館

松山市立の子規記念館の1階フロアに掲げられたの横顔写真。

 

正岡子規 1867-1902

愛媛県松山市 出身

 

くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の

針やはらかに 春雨のふる

 

中2国語の教科書に載っている有名な短歌です。

作者の正岡子規を訪ねて、出身地の愛媛県松山市と歌人として活躍した青年期以降の地、東京を訪ねました。

 

若い頃は野球をことのほか愛した子規でしたが、病魔には勝てず34歳で病没しています。

28歳で結核にかかり長い闘病生活を続けながらも革新的な短歌や俳句を発表し続けました。

 

ペンネームの「子規」は鳥のホトドキスを指します。

鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに、結核で血を吐きながら闘病していた自分と重ねたのです。

上記の歌はその時の病床から庭の薔薇を眺めた時の短歌と言われています。

 

松山といえば、松山城と道後温泉

 

松山や 秋より高き 天主閣

 

十年の 汗を道後の ゆに洗へ

松山市内には、2つの子規の記念館があります。

一つは松山市立の記念館。

ここには子規の足跡が分かる貴重な資料をたくさん展示しています。

 

最初の1階のフロアには、大学で同級生だった若かりし頃の夏目漱石との等身大のパネル写真があります。

窓の外には、糸瓜(へちま)があります。

正岡子規と言えば、糸瓜には縁があります。

生前、最後の俳句(辞世の句)は糸瓜にまつわるもの。

9月19日は子規の命日で、「糸瓜忌」(へちまき)と知られています。

 

糸瓜(へちま)咲て 痰(たん)のつまりし 仏かな

痰一斗(たんいっと) 糸瓜の水も 間に合はず

をととひの へちまの水も 取らざりき

 

道後温泉近くにある子規の若き頃の像。

当時、アメリカから入って来たばかりのベースボールに夢中でした。

本名の「昇」(のぼる)に野球を「のぼーる」と呼んだペンネームもありました。

東大時代にも野球に夢中になっていました。

現在の上野公園内には「正岡子規記念球場」があります。

当時、松山市内を走っていた汽車。

小さくて可愛らしいです。

通称 「坊っちゃん列車」

夏目漱石も短期間ではありましたが、松山市で英語教師として赴任していたことがあります。

そこから小説「坊っちゃん」が書かれました。

子規も漱石も乗っていたと思われます。

松山市内にもう一つの記念館、「子規堂」があります。

こちらは子規の家の菩提寺にあります。

子規の子供時代の資料などが知れます。

幼少のころの勉強机やノートなど。

 

多感な10代を過ごした正岡子規。

いよいよ上京します。

東京での子規の足跡は後編へつづきます。

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