こんな話  2024年10月21日|月曜日

中2国語 正岡子規を訪ねて後編 東京都根岸の子規庵

正岡子規を訪ねて 後編

前回は故郷、愛媛県松山市を歩きました。

今回は上京して移り住んだ子規ゆかりの東京、上野や根岸を歩いてみます。

まずは上野公園にある「正岡子規記念球場」。

休みの日にはここで草野球を楽しんでいる人もいます。

子規が学生の頃、この場所で試合をした記録があります。

捕手(キャッチャー)だったそうです。

野球用語の「打者」「走者」「直球」は、子規が英語から翻訳し、今に至って使われています。

 

そこから北へ歩いて東京国立博物館を横目に日暮里方面へ。

山手線 常磐線の跨線橋を歩きます。

 

まずは少し寄り道で一服。

日暮里駅にほど近い谷中の「羽二重団子」本店に寄ります。

1819年創業。

当時は芋坂と呼ばれた場所。

江戸時代から続く和菓子店。

 

芋坂も 団子も月の ゆかりかな

 

「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一辺行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」

吾輩は又少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要なし、又尾行する勇気もないからずっと略してその間休養せんければならん。

-「吾輩は猫である」 夏目漱石 著

 

正岡子規や夏目漱石などに愛された団子屋さん。

美味しくいただきました。

 

そこから歩いて数分で、「子規庵」に着きます。

子規の東京時代の家です。

もとは加賀藩の土地で、学校を卒業した正岡子規が短い生涯を閉じるまでの東京時代を過ごした家です。

闘病生活を支えた家でもあります。

 

子規亡き後は、妹の律が守りましたが第二次世界大戦の空襲で焼失。

戦後まもなく弟子たちが元の間取りを忠実に再現して再建されました。

月照す 上野の森を 見つつあれば

家ゆるがして 汽車行き返る

 

冬ごもる 病の床の ガラス戸の 

曇りぬぐへば 足袋干せる見ゆ

 

くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の

針やはらかに 春雨のふる

教科書にも載るこの歌も、この場所で詠まれました。

亡くなる2年前です。

病床から窓越しに見たのでしょうか。

 

もとは障子でしたが、病床の子規が庭を楽しめるようにとガラス戸に変えました。

夏には糸瓜(へちま)も見えます。

10月半ばに訪れましたが、最後の1つでした。

ヘチマは一年草なのでひと夏でこんなにも伸びるそうです。

もっとも今年は暑かったので、ヘチマ自体はあまり育たなかったようです。

 

こちらは復元された文机ですが、身体が思うように動かなくなったので、立て膝をつけるように改良されました。

東京のど真ん中ですが、今でも自然が感じられるオアシスのような庭。

34歳の若さで亡くなった正岡子規ですが、その周りには多士済々の文化人との交流があり、さらには数多くの弟子たちが没後もこうして子規ゆかりの家を守り抜きました。

 

首あげて 折々見るや 庭の秋

漱石が来て 虚子が来て 大三十日

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